last updated 1997/05/24
第9話(全130話)
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眠る母と自分だけの部屋は、いつもと何も変わらないはずなのに、何故か広くて寒々しく感
じた。母のぬくもりがベッドの中に閉じ込められ、少しも家を暖めてくれていない。そんな感
じ。ピート再び自分の無力さに囚われ、力なく母を見下ろしたまま動かない。
父さんが母さんと結婚した時に、記念にと新調した鳩時計がカチカチと時を刻んでいる。午
前七時七分。時計の針はいつもと何も変わらない時刻を告げ、また一秒、一分と針の歩みを進
めて行く。一秒の囁きも一分の重さもいつもと同じ。それははじめてネジを巻いた日、父さん
と母さんの結婚当日の、希望と愛とに満ちた日から何も変わっていない。変わらない一秒の囁
きが家に満ち、変わらない一分の重さが家に降り積もり、何も変わらないはずなのに、すべて
が変わって行く。
カチカチという時の鼓動に耳をすましたまま、いつしかピートはマリイアのベッドサイドに
座り込んでいた。気がつくと、マリイアの書いた童話の一冊を手にしている。毛布の下のマリ
イアの手をそっと握りながら。ピートは魔法のように自分の手元に現れたその本に気づいて、
驚いたようにみつめてしまう。魂が抜け出て本棚まで歩き、この本を持って体まで戻ってきた
のかもしれない。あるいは眠る母さんの意思が、その深遠な力で本棚からピートの手元まで一
冊の本を瞬間移動させたのかもしれない。とにかく本はそこにあった。ピートの膝の上に。
読みなさいと命じてるみたいに。
あたしを読んで。
Read Me ・・・。
アリスを不思議へと誘い込む魔法の手紙をピートは思い起こした。読みなさい。飲みなさい
。その有無を言わせぬ断固とした命令がアリスを奇妙な世界へと放り込んだ。Read Mee・・・
Drink Ne・・・。決して逆らうことの出来ない、その命令を通して、ルイス・キャロルは抗う
ことのできない運命を表現したのかもしれない。不思議の国がひとりの少女の成長を促したよ
うに、いま魔法のように手元に現れたこの本もまた、ぼくを成長させようと企んでいるのだろ
うか?
Read Me ・・・。
読みなさい。
母さんの童話が、ぼくにそう命じている。
ピートの耳にドクター・ルゥドの声が甦った。
「マリイアの童話を読めば、そこに何か発見があるだろう。マリイアがきみだけにそっと囁い
た、秘密のメッセージがみつかるかもしれないよ」
ドクター・ルゥドはその言葉で、ピートにすこし落ち着け、と言いたかったのだろう。本を
読み、マリイアの言葉に触れることで、ピートが静かに母の側で時を過ごすことがいちばん大
切なのだと。
けれどピートはそういうふうには解釈しなかった。彼はドクターの言葉を額面通りに受け取
った。医者がピートに与えた処方箋。マリイアの病を癒すための、たったひとつの妙薬。そう
受け取った。
Read Me ・・・。
ピートはもうすでに何十回も繰り返し読んだその物語のページを、改めて開いてみた。ドク
ターと運命の指示に従うほうが、馬鹿馬鹿しいと本を放り出すよりも、ピートにとっては自然
だった。
一秒と一分がせっせと新しい時を家に降り積もらせる中で、ピートは水漏れのピョーン、ピ
チョーンという音を聞くとはなしに聞きながらページを繰り続ける。そこに秘密のメッセージ
が隠されているかも知れないと思うと、それだけで読み慣れた物語が、まったく新しい表情を
見せるようだった。言葉のひとつひとつが生き生きと、より鮮明にピートの心に染み渡る。
リュウという少年が老いた樫の木に予言された、未来の花嫁を捜して旅に出る、という物語
を半分まで読み進んだ時、ピートはハッとなって目を見開いた。捜していた秘密のメッセージ
がそこにあった。
旅の途中で知り合ったお転婆な姫君が病に倒れ、それを癒すためにリュウが茶色い花をみつ
けようとする場面。
茶色い花。
ピートはその花を知っていた。この町にその花は咲いている。物語には、こう記されていた
。
その花は五つの花弁を持ち、朽ちて倒れた老木のようなダーク・ブラウンの色に染まってい
るのでした。すべての病を癒すことの出来るトルナトレナという香りを放ち、森の動物たちは
傷ついたり病気になったりすると、その花の周りに集まり、一日ずっと座り続けるのです。ト
ラもウサギもクマもリスも、この花の周りにいる時だけはお互いに脅かしたり怖がったりせず
に、とても仲良しになります。
トルナトレナの花は森の病院でした。
トルナトレナの花は世界が動物たちのために派遣した選りすぐりの名医でした。
けれど茶色くてみすぼらしい姿の花でしたので、人間たちには見向きもされませんでした。
だからこそ、花は人間たちに奪い取られることなく、森の片隅でひっそりと咲き続けていられ
たのです。茶色は花にとって、保護色になっていたんですね。
リュウはトルナトレナの花をみつけると、その香りだけを革袋に入れて持ち帰りました。手
折ったりはしません。何故って姫を助けるために、花を取ってきてしまうのは、森の動物たち
から病院を奪うのと同じだからです。
リュウにはそんなことはできませんでした。ただ香りだけを、彼は姫のもとへと持ち帰った
のです。
ピートは物語の中に引き込まれていた。彼はリュウだった。そしてマリイアは姫君だった。
リュウが姫君を救うことのできるたったひとりの英雄だったのと同じように、ピートもマリイ
アのためにトルナトレナの香りを持ち帰ることの出来る、たったひとりの少年だった。
「すぐ帰ります」
眠るマリイアへと囁き、その額に軽くキスをすると、ピートは母のベッドを離れ、そして家
から走り出して行った。ドアのそばに置いてあった野菜篭から、玉葱を入れていた紙袋をひっ
つかみ、中の玉葱を篭へと移して、ピートは紙袋だけをズボンのポケットにねじ込むことを忘
れなかった。リュウが革袋を忘れなかったのと、同じように。
(つづく)
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